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田 徳意

各種の災厄をよけ,幸運をもたらすと信じられている物体のことで,呪符ともいう。現代の日本でみられる例には,自動車や身につける交通安全や学業成就などの〈御守(おまもり)〉や家の柱・門などにはり付ける〈御札(おふだ)〉,客商売の家や店に置く〈招き猫〉などがある。
霊力の高い念が込められた護符・霊符であることが絶対条件です 大法師の秘儀による強い念が込められた護符・霊符があれば あなたの念力(願い)をどんどん強化します。 カラーミーショップ
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 「護符とは」

はじめに

  ここに紹介する道教の霊符は、不思議な霊験を持つ「神の符と呪」として、古来より秘密裏に伝えられてきた道教真法のです。その根源は中国大昔から用いられてきた、道教の道術に流れを汲み、一枚の清浄な紙に中国道教秘伝の神言(呪)を宿らせ、それを開眼させることで天地の神秘な力を自分のものとし、体内に眠っている生命力(生きようとする強い霊力)を高め、様々な願望を成就させるというものです。

  「天地」とは、我々をとりまく宇宙・大自然そのもののこと。これらは人間に安らぎと幸福をもたらし、ある時は災いと不幸を招く絶対的な存在です。「御神符」は、これらを構成する様々な「呪(しゅ)」を操ることで、人間の願望を叶え、幸福へと導いてくれるのです。では、「呪(しゅ)」とは一体何でしょう? 御神符の世界では、世の中は全て「呪」で成り立っています。

  「呪」とは「この世に存在する意味を与える強い霊力」のことです。目に見えるもの・見えないもの、名前のあるもの・無いもの全てがこの「呪」によって守られ、他の「呪」と複雑に共鳴し合いながらそこに存在しています。 これはつまり中国道教における符呪は、もともと太上老君(道徳天尊)など古来の神仙が、天地自然の様々な姿を写しとったものでそれが人に授けられた事を示している。そこに泊まる玄妙な力も、霊符自体が宇宙の生成化育、変化流転の相をあらわす物だからこそ生まれる。一つ一つの符の形には深遠な意味があり、宇宙間に律動する神秘的な力がその形に共鳴を起こして、普通では考えられないような不可思議な力を発揮する。また、それを授けた神仙と人との幽契により、霊符を持つ者には、ある種の神霊の加護がある。

  従って、念を凝らして書き上げた霊符を用いれば、様々な神を召喚し、悪鬼を裁き、妖邪を降し、魔神を鎮め諸病を治癒し、諸災を除くことができる。 霊符の効果が現れるのは人や場合によって、若干の差があります。

護符の効能

事業成功  霊障消除  先祖供養  家相地相  霊格向上  病気平癒  怨敵退散  旅行安全  五穀豊穣  交際円満
守護神の加護を得る  盗難除け 人気者になる  縁切り  方位よけ 火災除け 安産子供が出来る 不仲が仲良くなるなどいろいろあります。

霊符の起源

この項では、霊符の起源を、道教で最も重要視されている「五岳真形図」のひとつ「霊宝混沌五岳真形図」を紹介しておく。(蓋し聞く、乾坤既に判れて、天に日月星辰を流し、地に山川草木を布く。ここに於て、三天太上大道君、虚空に在りて六合を下観し、斗柄の発動を窺い、これを日月の出没に考え、東西を安竪し、南北を制正し、中央を定め、河海の盤曲を瞻、崑岳を九海の中央に植て、天地の心と為す。四岳を巨海の四隅に設けて鎮護と為し、五帝に舎とし、以て五緯を固めしむ。
束天結気文と五岳の形象を画取し、これを五帝に授与し、或いは以てこれを七宝の玄台に秘し、出して霊真之信と為す。

  ――天地が分かれて、天には日月星辰が出現し、地には山川草木が生じた。このとき、三天太上大道君(太上老君の別名)が、虚空から天地四方を見下ろし、北斗の旋回する様子を窺った。そして、それと日月の出没の軌道などをあれこれと照らし合わせ、東.西・南・北・中央を定めた。

さらには、河や海の曲がりくねった形勢を観察し、九つの海の中央に崑崙山を樹立して、天地の軸心としたロそして四岳(崑崙を中央として、その四方に位置する東岳、西岳、南岳、北岳)を四方に設けて、世界の鎮護とし、五帝(中岳[崑崙]には黄帝、東岳には青帝、西岳には白帝、南岳には赤帝、北岳には黒帝)の住むところとした。そして天にあって、一切を化有し、万物を形成する五星(五緯)の気を調和させた、というのである。

さらに、霊符の起源と関連して重要なのは、太上老君が「東天結気文」「五岳の形象」を描きとったという部分だ。東天結気文は、東方結気文ともいう。

太上老君が天地四方(六合ともいう)を観察して、北辰太の霊機を察知した折りに、まず東方の玄気が発動し、自然と気が凝り結んで文をつくった。この結気の文の形象を太上老君が書写したものが、東方結気文である。これは神仙のひとり、東方朔がいうところの所謂「太上之書法(群方飛天八会之霊書法)」の起源となつている。 実は、これこそが霊符における字符の発祥とされているのである。霊符が始元の霊気をもつものとして、十分に気を結んで感応し、神を招くとされ、昔から仙家できわめて重視されてきた理由は、ここにある。

ちなみに(雲笈七籖』に収録された「五岳真形図」にある東方朔の序には、「五岳真形図の首題に記された文字は、神農(中国伝説上の帝王.後述)の代より昔、最初に烏のつけた足跡から文字が発明される以前のもので、人界の字ではない。そのため、神仙の訳注がついていなければ、決して読むことはできない」とある。

また、五岳の形象を描きとったことについては、同じく東方朔の序や『漢武内伝』にある神話によると、太上老君は大地に五岳をつくった後、天に翔け上がり、虚空から下を俯瞰した。そして、その神聖な眼に映る五岳の真象の書字に似たものを、自ら書写した。これが「五岳真形図」であり、道教におけるさまざまな神秘的な霊符における図符の発祥とされるものなのだ。

なお、この「東方結気文と「五岳真形図」は五岳の五帝に授けられて、元気の発動と五気の生成化育・変通造化に役立つとされた。またその原図は、太上大道君の幽宮にある七宝の玄 台の龍窟に秘蔵され、霊真の徴として人に授受することが定められた。霊真とは、「霊威の徳が備わって、神真の位階に至った真人」の意。これは、その位階を許された者に、そのしるしとして「東方結気文」と「五岳真形図」が授受されることを表している。では、こうした授受がなぜ行われるのだろうか?

「五岳真形図」には太上老君が霊書で記した(三皇内文」という奇文の勅章がしたためられている。それには(三天太上大道君、命有り、天地山川丘陵の神、我が子を護りて害患を慎み、久安を念いて長全ならしめよ」とある。これは、太上老君が)五岳真形図」を受けた者をわが子とし、その徳を長く保つために、天地、山川、丘陵にいる多くの神々はこの者を守護して、害患に犯されることのないようにせよ、ということだ。
さらにくわしくいえば、真人の位階に到達した者は、災いを除いたり、福を招いたり、自由自在に変化したり、さまざまな神霊を使い、天変地異をも起こすことができる。この者は、すでに神に通じる徳を備え、天地造化の作業を神と分担できる神仙である。そこで太上老君は「東方結気文」と「五岳真形図」を五帝に与えて元気の発動、五気の変通を助けたのと同様に、わが子のような真人の霊徳を長く養い、霊威を増大させようという配慮で、霊書の中でも最も貴いとされる神物を授けるというのだ。
道教の中核をなす仙道は、「僊道」とも表記されるように、人間から変化して神に遷るための道でもある。真人となった道士は、この神仙道をきわめたのだから、「五岳真形図」と「東方結気文」が与えられこととなったのだ。

他の霊符もやがて同様の趣旨のもとに、これら優れた道士に授受されるようになつていつた。道教における霊符の発生や授受には、このような霊的起源があったのである。

霊符の歴史と変遷

さて、霊符の歴史上の起源は、どのあたりに求められるのだろうか?

多くの研究者たちは、霊符は中国古代の敬天崇地思想に由来するものと考えている。この思想は文字どおり、天を敬い地を崇拝する、つまり自然を尊ぶ考え方である。

古代中国の人々は大空に輝く太陽、月、星を仰ぎ、あるいは峻厳な山岳河川の姿を見、風雨雷電の自然現象に驚き怖れ、いつかそれらを神格化して祭祀するようになった。

道教の起源はこの敬天崇地思想にあり、同時にそれが道教における霊符のもとともなったというのだ。実際、道教の霊符を仔細に見てみると、その複雑な図形の中に、日月星を象徴し、あるいは山岳、大河、風雨、雷電などを意味するものが多く確認できる。

なお、霊符の最も早い文献上の記載は、後漢・霊帝の光和年間(一七八〜一八四年)の(三国志』に見られるものだ。ここには、前述の張角が始めた太平道で、霊符を使って病人を治したという記述がある。

また『後漢書』には、「河南に麹経卿という人物がいて符術をよく用い、鬼神を呪い殺し、また使いこなす」とある。さらに、同書には前述の費長房にまつわる、次のような逸話も載っている。かって、費長房は売薬翁に師事し、道を学んだ。売薬翁はある霊符をつくり、これを使って地上の鬼神の主になるよう費長房に授けた。費長房はこの霊符を用い、さまざまな病を癒し、百鬼をこらしめ、土地の神々を駆使した。しかし、後にうっかりその霊符をなくしたばかりに、彼に恨みをもっていた多くの鬼に殺されてしま考古学上では、後漢時代の墓の中から発見された霊符の実物が、現時点で最古のものと目されている。

  これは、陝西省戸県の墓から出土した陶瓶に朱書された霊符で、その右に「陽嘉二年八月己巳朔と書かれている。鎮墓符とされているが、正確な用途は不明である。また(貞松堂集古遺文』には鉛券が掲載されているが、それには「元嘉元年十月十一日 口口 袁孝刻家、如律令」と記され、さらに霊符が付属している。陽嘉二年とは西暦一三三年、元嘉元年は一五一 年にあたる。

また、後漢末期のものと推定される、江蘇省高郵県の墓から出土した木簡にも、「如律令」などの語とともに、霊符が記されている。その他、年代は不明だが、多数の霊符が洛陽、定州、高由などの後漢時代の墓から出土している。ということは、霊符は少なくとも二世紀以前には、存在していたことになる。)おそらく、この後漢時代、発生したばかりの道教教団は、古来の霊符の術を継承した。前述のように、太平道や五斗米道などはこれを受けて符術書をつくり、符を浮かべた符水を飲ませるなどして病人を治し、その効験で組織の創建時に、多くの信徒を集めることに成功している。唐(六一八〜九○七)末期から宋(九六○〜一二七九)初期にかけては、天師道と上清派、霊宝派は、それぞれ龍虎山、茅山、閤阜山を活動の中心としたので、(三山符」と総称され、いずれも多くの符を伝承した。

その中でも五斗米道、つまり後の天師道の符はとりわけ多い。よく知られたところでは、「太上三五正一盟威宝」と呼ばれる三つでワンセツトの霊符がある。

この霊符名のうち、「太上」とは最高、最上を意味し、さらに太上老君のことを示す。三は天.地.人の三才を指す。「五」は五行(木・火・土・金・水。万物組成の元素)の中央にあって、死んだものを包み込む黄色の土、すなわち地を意味する数で、生死をつかさどり、あらゆる霊を摂取するものの意味。「正)とは偏りなく正しいことを表す。「一」とは唯一、二つとないこと。「盟威」とは六賊(眼の賊である色、耳の賊である声、鼻の賊である香、舌の賊である味、身の賊である触、念の賊である法)を従わせることを意味するく:この天師道の霊符は、一定の審査と修練を経さえすれば、老若男女誰でも受けることができた。

  なお、天師道に属する家では、七歳から十六歳の子供は道術を学ぶことが義務づけられていた。子供はまず最初に調息法を学ぶ。次に、より上級の行気法を学び、その後に「太上童子一将軍」(図参照)と呼ばれる霊符が授けられる。ただしこれは総称であり、男子に授けられる符の「仙官一将軍」と女子に授けられる符の《霊官一将軍」に分けられる。このを授けられた後で、さらに道を学ぶ子供は、散気童男あるいは童女祭酒と呼ばれ、正一生弟子となる。一将軍を受けた者は、北一官部諸神吏功曹力士と呼ばれる鬼神を呼び出し、自分の思うままに使うことができる。この鬼神の神通力は、非常に強いことでも知られている。

道教教育と並行して、子供にもこのように霊符を授けていくのが、天師道の特徴といえるかもしれない。霊宝派の符も多く、《霊宝五符」(図参照)、「老君六甲符」、「八景天書、「五岳真形図」などがある。

これらの符の神通力の強さは、天師道のものと同様によく知られている。(霊宝五符」はさまざまな邪を降伏させ、鬼神を使役する。「老君六甲符」はあらゆる病を治すのに効果があり、長生不老をもたらすく。「五岳真形図」を手に入れれば、山河の神が迎送し、保護してくれる。もし家にこの符があれば、心に思うことが実現し、家運は隆昌するとされている。

上清派の符の多くは、諸派の符を土台として成立したものだ。主に「太上帝君金虎符」、「太上神虎符)「太上亀山元」(図参照)、「上清霊飛六甲」などがある。これらの符は、それぞれ異なった天神を召喚する。そのため、一人の道士は一つだけではなく、何種類かの符を受けることも多く、これらの質や数によって道階(道十の位)の上下が定まるこたとえば「太上帝君金虎符」を受ければ、六天大鬼辟乾毒王、北帝魔王振拾羅旌、北豊鬼相四天磊這三干の隠名を呼ぶことで神仙を使役することが可能になり、また、多くの弱小霊を駆逐することができる。

「太上帝君金虎符」は白絹に朱書し、紫色の錦嚢に入れて携帯したり、あるいは黄緑の帯に縫い取りして、腰の右に付ける決まりになっている。これをもつ道士は上清派の第一階位に属する。また「太上三景三奔」を受ければ、第三階位に達したことを意味する。これをもつ者が念じれば、即座に五帝およぴその后がやってきて助けてくれる。なお「太上三景三奔」を受けた者は、三景弟子と呼ばれるが、この三景とは日.月.星のことをいう。

宋の時代以降には、(三山符?」を基礎として林霊素の神霄派、清微派など、さらに多くの符?派が出てきた。また、金や元の時代になって、内丹法を重んじる全真教が興り、南方にある符?を主とする正一教と勢力を二分するようになる。これより明(一三六八〜一六四四)、清(一六一六〜一九一二)にいたるまで、符を重視する正一教と、内丹法を主とする全真教が道教界を支配するようになった。後には全真教も含む大半の道教諸派で符が用いられ、符図の書き方などもさらに研究が加えられて、筆画はさらに複雑になっていった。これによって神秘的色彩はより強くなり、符を用いる際のそれにふさわしい形式が形成されていった。つまり符の発展史と道教の歴史とは、互いに重なり合っているともいえる。このように、道教は長期間にわたって符?を世に伝える過程で、符道法を整え、多くの符術書をつくりあけた。歴代の道教経典のほとんどは大洞、洞玄、洞神の三洞の道典に収められているが、そこには多くの霊符が収載されている。

一例を挙げれば、道教の祭儀やそれに用いる各種の霊符を記した『道法会元』があり、『太平経』には「開明霊符を服す」「星象符を佩ぶ」などの記述があり、同書に記された符は実に三百種を超える。ちなみに(服す」とか「佩ぶ」は、一種の簡易な儀式であり、「服す」とは受けた符を焼いて水に混ぜて飲み下し、「佩ぶ」とは錦の袋などに密封して身につけるという意味だ。これにより災いも降りかからず、妖魔も侵すことができないとされている。
葛洪の著書『抱朴子』は、「符は、山精、鬼魅、虎狼を避ける」などの作用があるとして、「太上老君入山符」など十三符を例として紹介し、五十数種の霊符と符術書の名を挙げている。そのうちの二種は図に示す通りだ。これらの霊符は、住まいの門戸の上とか部屋の四方四隅、梁や柱の上に置いたり、道の要所に置くといい。山に入つたり、また山林で暮らすようなとき、人はこの霊符によってさまざまな害から身を守ることができるのだ。

  その他の道書もまた、多くの符を載せている。『陰陽護救千鎮厭経』『上清霊宝大法』などは、いわば符の集大成であり、数多くの符が収められているだけでなく、異様な形象のものも多い。

霊符の祖とされる神と人

道教の霊符はその起源があいまいであり、また道士の属する派によって崇める存在も違うため、神話上ですら、太祖が誰であるかについては一定していない。ただ、玉皇太帝、三皇、太上老君、張道陵は「道符四祖」としてとりわけ著名なので、まずはそれを紹介する。加えて、伝説上の中国最初の王である黄帝についても述べてみたい。

●玉皇太帝

現在、道教の最高神である玉皇太帝は、天公、玉皇上帝、天帝、玉皇太無元金閥太帝など、多くの異称をもつだけでなく、あとで述べる太上老君とは不可分の関係があるとされ、また黄帝とも、次のように密接な関わりをもつといわれる。

宋の真宗の時代に、帝室の祖先が天降るという不思議な事件が起きた。その事件とは、真宗が夢の中で、神仙による「趙氏(真宗の祖先)が降臨するから、唐室が老子を奉じたように祀れ」というお告げを聞くことから始まる。はたして翌晩、寝室に金色の光がさして、神々しい姿をした神が従神を連れ、金色の靄の立ち込める中から出現した。そして真宗を呼び寄せ、乳色の碧玉湯を飲ませたのち、「自分は最高神.玉皇太帝であり、趙氏の祖先にあたる。昔は軒轅皇帝(黄帝)と呼ばれたこともあつた。おまえは初心を忘れず、よく人民を撫育しなければならない」と告げ、雲に乗っていずこかに去っていったという。これをきっかけとして、真宗は軒轅皇帝を聖祖として昊天玉皇太帝と尊称し、さらに加えて、太上開天執符御歴含真体道玉皇大天帝という聖号を献上した。以後、玉皇太帝は道教の最高神として尊崇され続けている。

なお現在、玉皇太帝は万神の王として百千億の神々を統率し、世界の修理固成と生類の生成化育をつかさどっているとされ、絶大な信仰を集めて いる。人々は、他の神々に祈願しても効験がない ときは、最後にこの神に祈るのだ。道教の最高神格といえる存在なので、当然、霊符の祖ということになる。ただし至上の神であるためか、符を直接人間に授けることはめったにないともいう。

● 三皇(天皇・地皇・人皇)

        三皇とは、通常の中国史では伏羲氏、神農氏、火燧氏を意味しているが、道教では天皇、地皇、人皇のことをいう。これらの神々は、原始の元気が化生したとされる聖的存在で、それぞれが天地の開闢以来、三十六万歳の問、天下を治めていたと伝えられる。たとえば『五行大義』には、「天地初めて起こり、即ち天阜を生む」とある。それによれば、三体の神のうち、最も高位の天皇は天界の紫微宮を治める神であり、地皇と人皇はそれを補佐する神なのだという。天皇はまた、宇宙最高の神と考えられていたこともあるようだ。この三皇は、大有の中から出現した「天皇文内字」「地皇内記書文」「人皇文」の三つの霊符、つま「三皇文」を世に伝えた。

葛洪は、「三皇文」があれば、悪鬼災難から逃れ、神霊を招き駆使することができるとして、「五岳真形図」とともに重視した。このため、三皇を霊符の祖と考える人も多い。だが、三皇は太上老君からそれぞれ天皇内経、地皇内経、人皇内経を授かったという伝承もある。

● 太上老君(老子)

太上老君は、道が形となって現れた存在とされ、『猶龍伝』という書には、老君は無始の時に生まれ、無因で起こり、万道の祖、元気の祖、混沌の祖、天地の父母であると書かれている。また最高神.玉皇大帝のこの世に現れた姿ともされた。ちなみに、五斗米道(天師道)では守一という静座法が説かれていたが、この「一」とはつまり道のことをいう。「一」は本来天地の外にあって、それが天地の中にも浸透し、また自在に人の体内をも往来するとされている。この「一」が形を散じると気となり、逆に形を聚合すると太上老君となると考えられた。

太上老君には、さまざまな言い伝えがある。たとえば…….老君がまだ人間世界の中に誕生していなかったときのこと。老君はこの世に生を得ることを考えた。

そのために、まず玄妙玉女をこの世の中に下して、尹氏の娘とさせ、仙人の李霊飛に嫁がせた。そして尹氏が昼寝をしているときに、太陽の精である九龍に乗って天から降り、その胎内に入った。このようにして生まれたのが、太上老君の化身である老子である。一説では、白髪の老人になるまで尹氏の胎内にいたともいわれる。

なお、老子は変身して何度も世に現れ、人々を救い、助けるとされた。そして、天皇の時代には万法法師、地皇の時代には玄中先生、人皇の時代には盤古先生、伏羲の時代には無化子といった具合に転生している。さらに、老子としてこの世に現れた後はインドに行き、釈迦として衆生を済度したとも伝えられている。

また、道を求める者のためにその姿を現すとされ、北魏(三八六〜五五六)の頃、道士の寇謙之のもとに降下したという、次のような逸話もある。

道に傾倒した寇謙之は俗世を捨て、嵩山に籠もって修行していた。あるとき、太上老君が雲を呼び、龍に乗って仙官、玉女を従えて嵩山の山頂に下った。そして、修行中の寇謙之に、「天師張陵の亡き後、地上には仙骨を有するものがいなかった。だが、おまえこそ次の天師の位を授けるに値するという、嵩山の神からの上奏があった。今、おまえを見るにつけ、まさしくそれに値する人物である」と言って神書二十巻を与える。その際、服気、導引、辟穀などの術も授けたという。

さらに、次のような、老子と霊符の関係を表す有名な伝承も見逃せない。老子が周の国を出て、西方の関所を通って崑崙山に登ろうとしたときのこと。関守の尹喜が、風の動きで諸事を占う風角術によって、神仙がそこを通ることを事前に察知した。そこで、四十里もの道を清めて待ち受けた。通りがかった神仙とは、もちろん老子のこと。これまで誰にも道を授けたことのなかった老子だが、この一事で尹喜こそは道を伝えるべき人間であることを悟り、しばらくの間、関所に留まった。

当時、老子には徐甲という下男がおり、若い頃から雇われていたが、なにせ仙人というのは金銭にあまり縁がないため、長年にわたって給料が未払いになっていた。徐甲は二百余年分の給料の督促状をつくり、尹喜に支払いの仲介を申し入れる。驚いた尹喜が、徐甲を老子に面会させたところ、老子は徐甲に問いただした。 「私はおまえに言ったはずだ。目的地に着いたら給料を計算して黄金で支払ってやると。なぜそれがおまえには待ちきれないのだ。すぐには払えないからこそ、そのかわりにおまえに太玄清生符を与えたのだ。そのおかげで、今まで生きてこれたのではないか」そう言って、徐甲のロを地而に向かって開かせた。すると、たちまち太玄清生符が飛び出てきた。その朱で記された霊符は、あたかも今、書いたかのように鮮やかであった。それと同時に、徐甲は死んで、ひとかたまりの骸骨になってしまう。驚いた尹喜は、老子が本当に神仙なら、人を生き返らせることもできるはずと考え、徐甲のために地に頭をつけて助命を願つた。

そこで老子が再び太玄清生符を投げると、徐甲は即座に生き返ったという。尹喜は、老子に代わって二百余年分の給金を徐甲に払い、さらに老子に対して弟子の礼をとった。そのときに老子がロ述した五千言を尹喜が筆記したものが、『老子道徳経』であるといわれる。これは各国語に訳されて、今なお多くの人々に親しまれている。なお、ここに登場した「太玄清生符」は、人の寿命を保つ不老不死の霊符として有名なものだ。

道教の究極の目的は不老不死にある。したがって、この符を自在に用いる老子を符祖の一人とするのも納得できるところである。この逸話以外にも、老子が符祖とされる、さらに大きな理由がある。それは、これまでにもふれた、次のような伝承がもとになっている。

天地のはじまりのとき、太上老君は地上の山岳や河の様子を、上空から見ていた。まるで蛇のようにうねり、文字のような形をしていたそれらを、老君は霊写した。それが「八会之書」とか「五岳真形図」といわれるもので、霊符のはじめとなったのである。

なお、道教経典は、三光==日.月・星の流動する真気の象をとったものが霊符であるとしている。このことに関して、抱朴子の師匠の鄭君も、「老君はよく神明に通ず。符は神明の授くるところなり」と語っている。このように、霊符と太上老君の関わりはきわめて深い。

● 張道陵

張道陵は張陵、張天師とも呼ばれ、後漢末期の沛(安徽省宿県)の出身である。もと官立学校の学生で、儒教の『易経』『書経』など五経に通じていたが、晩年になって儒教は寿命を延ばすことについては、なんの役にも立たないと慨嘆し、ついに蜀の鶴鳴山に入り仙道を修行した。

ある日、張道陵のもとに太上老君、青真小童君などの神仙が降下した。神仙たちは「正一盟威妙経三業六通之訣」を張道陵に授ける。その際、太上老君から治鬼鎮邪の天師の位を授けられたことから、張道陵はこれ以降、天師と称した。これが後に天師道を始めるきっかけとなる。

張道陵は神仙から符術を授かって、人々の病を治すことができたので、それによって多くの信徒を擁し、莫大な財物を得た。この財力でさまざまな薬の原料物を準備し、仙薬を調合したのである。仙薬が完成すると、張道陵はそれを半分服用した。すべて飲めば、たちまち神仙となって昇天し、天宮に仕えることになる。しかし、神仙は天界で官吏として働かねばならない。張道陵はすぐには窮屈な宮仕えをしたくなかったため、仙薬をすべて飲まず、人間でいることを選んだのだ。

このようにして、張道陵は符術や仙薬のおかげで分身術なども自在にできるようになった。こんな逸話がある。ある門弟が道陵に面会しようと庵を訪問したところ、道陵は溪流の淀んだところで舟遊びをしていた。そこで、道陵が遊び終わって帰ってくるのを待とうと、門弟が庵のほうに行くと、なんとそこでは、道陵が仙経を誦している。邪魔をすまいと、門弟が庭に出たところ、そこでは道陵が床几に腰をかけて、客と対談している。ついに門弟が、これではとうてい今日はお目にかかれまいと外に出れば、そこには杖をついて、仙詩を吟じながら散歩する道陵 がいた……。 このように道陵は、同時に何か所にもその姿を現すことができたのだ。

  また、こんな話もある。鶴鳴山の麓の住民が生活の唯一の頼みとしている井戸を、妖魔が占有した。おかげでその井戸は、水が溢れて池のようになってしまった。そのうえ住民が水を汲もうとすると、妖魔がものすごい大 波を立てるので、近寄ることもできない。請われてその池に行った道陵は、一枚の霊符を懐から出して、まるで石でも投げるように井戸があると思われるあたりの水面に投げた。霊符は水面に落ちると、すぐに一羽の黄金の烏となった。黄金の烏は水面を強く蹴って飛翔し、井戸の上あたりでキラキラと光る黄金の翼を広げながら、円 形を描いて飛び回った。

   太陽の光がその翼に反射して、まばゆいばかりの白熟光が、いく筋も水底に射し込む。やがて、その光に耐えられなくなったのか、にわかに水面がざわつき、ムクムクと水が湧き上がって、一匹の巨大な龍が苦しそうに姿を現す,そして、雲に乗って逃げ去ったのである。すると不思議なことに、池となって湛えられていた水は、地中に吸い込まれ、もとのひとつの井戸が残った。右に記したのはごく一部で、張道陵はほかにも多くの霊異を現している。後に道陵は多くの弟子が見守る前で、高弟三人とともに白日昇天した。白日とは太陽が南中する正午のことこ影が最も短くなる時間で、神秘的な時間と考えられており、『抱朴子』にも「形を挙げて軽飛し、白日に昇天するは仙の上なるものなり」と記されている。

この張道陵は、民族宗教としての力ラを打ち破った、制度的宗教としての道教の開祖的存在とみなさ』 れ、伝説的、神話的な符祖を除くと、道教史のうえで最も符祖という名に値する人物と目されている。張道陵が残したと伝えられる霊符は数多くあるが、中でも三官符」がよく知られている。

三官符の三官とは天官・地官・水官のことで、天の神・地の神.川の神に捧げる符だ。また、「天師符」という張道陵を符化したものもある。これは、かっては華北地方で、貧乏よけの秘符として、門柱などに多く貼られていた。この風習は、千九百年余りも続けられていたという。

● 黄帝

霊符の祖は、ここまで紹介してきた「道符四祖」のみではない。漢の武帝に符を授けた西王母、太上老君から太玄生符を委託された青真小童君、左元放、葛稚川など、符祖の資格をもつ神仙や人物は、まだまだいる。

それらの中から、ここでは軒轅皇帝とも呼ばれた黄帝をとりあげてみる。黄帝は現在、最高神・玉皇太帝と同一視されている。また、黄帝の施行したという「兵信符ーが、青幇とか紅幇といった道教系統の秘密結社などで崇拝されていることでも知られている。

黄帝は、中国における最初の帝王といい伝えられる人物である。一家が姫水の近くに住んでいたことから、姫氏と呼ぱれることもある。そして、その出生も常人とは異なっていた。

伝説によるとあるとき、母の附宅氏は、体内に北斗魁星が入る夢を見た。その後、懐胎し生まれたのが黄帝であった。幼少よりきわめて聡明だった黄帝は、成長すると万芸に通じ、周囲に推されて帝位に昇り、国土を定めた。その後、人々に家屋の建築法を救え、繊維でできた衣服や、舟、車、弓などの利器を与えた。その他、天文、地理、暦法、文字、兵法、歌舞、医術にいたるまでを発明したといわれている。

  黄帝は神仙を好んだ。そして、西王母の住む崑崙山をはじめとして、多くの霊岳名山に壁り、仙聖を訪ねた。さらに白らも神仙術を学び、百霊を使役したという。中でも風山に登って紫府先生に拝謁し、「三皇内文」を授けられたことは有名だ。

  このとき同時に、「五岳真形図」をも授けられている。そして、その概によって、五岳の神界をつぷさに周遊し、くわしく調ぺた。

その際、中、東、襾、北の四岳には、それぞれ各岳を補佐する神山があるにもかかわらず、南岳のみそれがないことを発見する。黄帝は太上老君にそれを告げ、許しを得て、潜山、霍山、青城山、魯山の四山を南岳を補佐する山と定めた。さらにその形を写し、もとの「五岳真形図」の後に連ねたという。後に黄帝は、龍に乗って白日昇天する。臣下たちもその龍の髭や、茸帝の持つ弓につかまって一緒に昇天しょうとしたが、龍の髭が抜け、弓も落ちてしまったので、ついていくことができなかりた。臣下たちは、空を仰いで泣き叫んだと伝えられている。

   黄帝が符祖の.人とされたのは、「符は黄帝の兵信符に出づる」という三洞神符経』の記述による。なお「兵信符」については『史記』に、次のように記されている。あるとき、黄帝は逐鹿の野で、蚩尤という怪物と戟った。蚩尤は周囲百里もの空間を、妖術で湧き出させた霧で覆い隠した。黄帝の軍隊は、五里霧中どころか百里霧中で、どこをどう進んでいいかわからなぃ。そこで黄帝は部rの風后に命じて、方角がわかるように指南車をつくらせて職つた。しかし、どうしても敵を破ることができない。ところがある晩、皇帝の夢の中に西王母の意を受けた人物が登場した。それは狐の皮衣を着た道人であつた。

道人は黄帝に符を授け、「太一在前、天一在後、これを得るものは勝つ。職わば必ず克たんというまじないを救えた。さらに西王毋は、弟子の九天玄女をも降下させ、「三官秘略五音権謀陰陽之術」に加え「霊宝五符真丈」や「兵信符丶「不能殺傷符」といった霊符および、『陰符経』などを授けた。これらを用いることにより、黄帝は、ようやく蚩尤を滅ぼすことができたのだ。右の「三官秘略五音権謀陰陽之術」は戦術の秘法であろう。「霊宝五符真丈」は「霊宝五符五勝之文と記した書もあるので、おそらく必勝を約束する符と思われる。同じく「兵信符」も勝利の符とされている,「不能殺傷符」は「刀櫓不能殺傷符」などとも呼ばれることから、その符があれば、刀や槍などで傷つけられることがないのだろう。また「陰符経』とは道家の思想に基づいて書かれた兵法書だ。

こうした霊符は、一般に武符と呼ばれるが、他にも「圧勝符丶「圧敵符丶「兵陣符」など、戦いに勝っための符は、いくつかあったものと思われる。黄帝はこれらの符を西王母から授けられ、それを用いることにより、蚩尤を滅ぽすことができたというわけである。

あくまで伝説的上の人物とはいえ、黄帝は人間界においてはじめて符を用いたわけで、その意味からも符祖に挙げる人々が多い。